1976年はLEDやLCD、クォーツアナログなどで時計界が熱気に包まれていたが、その状況に、世界で最も偉大な現役の時計師であったジョージ・ダニエルズは、うんざりしていた。「私は“電気屋”にとても怒っている」。1999年にアメリカのタイム誌で同僚だったノーマ・ブキャナンにこう言った。“電気屋”とは、電子時計の提案者と、その前身である電気時計も含めて、ダニエルズが軽蔑して放った言葉である。「時計の世界で、“これが未来だ”といわんばかりに闊歩する姿に腹が立ったのです」
怒りを覚えたダニエルズは仕返しすることを誓った。彼は母国イギリスで、新しい脱進機の発明に取り掛かった。「ダニエルズは、人生の半分をレバー脱進機(注油を必要とする摩擦)の問題について考えていました」と、ブキャナンのレポートは報告している。「でも彼が行動を起こすきっかけとなったのは、クォーツ革命でした。機械式時計はクォーツに劣らず、しかも電池を使わないのですから、それ以上の性能を持つものだと証明したかったのです」。
ジョージ・ダニエルズ
ダニエルズはひとつのガンギ車を使った従来のものではなく、ふたつのガンギ車を同軸に設計した、新しい脱進機を考案した。この脱進機により機械式時計の精度は向上し、さらにメンテナンスの頻度も減るだろうと考えたのだ。新しいこのコーアクシャル脱進機は、電気屋に見せつけるためだったのだ!
ダニエルズのクォーツショックへの対応は、趣向を凝らしたものだった。1976年に新しく改良された脱進機が、機械式時計は時代遅れと一蹴され、ともに歴史のスクラップになるのを防いでくれるという考え方は、笑止千万であった。機械式時計はすでに絶望的な状況であり、それはジョージ・ダニエルズ以外の時計業界の誰もがそう思っていた。しかし、ダニエルズはものともしていなかったという。
卓越した技術を持つダニエルズによる懐中時計、スペース トラベラーのムーブメントをご覧いただきたい。
しかし、最後に笑うのは彼だった。ご存じのように、機械式時計はその運命に逆らい、産業史に残る驚異的な復活を遂げたのである。その道のりは長く、厳しいものだった(ダニエルズが開発したコーアクシャル脱進機が実用化されるのは、それから23年後のことである)が、それは実現したのだ。
その経緯は、長編の本にもなっている(その後はメジャー映画にもなった!)。以下では、気難しいダニエルズがコーアクシャルに着手した翌年から時計業界の取材をはじめた私が、主要な登場人物とターニングポイントの一部を、エピソード形式でまとめて紹介していく。なおこの記事は、1978年から1989年までを、次に1990年から2000年までの2回にわけて掲載する。要するに、何が起こったか、手短に話すということだ。
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心に響く最初のストーリー
かつての腕時計は懐中時計に比べ、名だたるブランドの複雑時計でさえも、コレクターズアイテムとしては不向きとされていた時期があった。
クォーツ時代の機械式時計に新しい息吹が感じられるようになったのは、1978年のことである。ジュネーブにある懐中時計ディーラー兼オークションハウス、Galerie d’Horlogerie Ancienneの共同設立者であるオズワルド・パトリッツィ氏は、懐中時計のコレクターが、ヴィンテージウォッチに興味を示していることに気づく。巻き上げ式の腕時計が廃れつつある今、懐かしさを感じるとともに、その希少性がさらに価値を高めるかもしれないという意識もあった。そこでパトリッツィ氏は、開催予定の懐中時計オークションに、腕時計の特別セッションを設けることにした。
このセッションは初の試みだった。当時、コレクターの世界では、腕時計は懐中時計の継子のような位置付けだった。パトリッツィ氏は、「リストピースでオークションを汚すなんてどうかしている」、そして「オズワルド、何をしているんだ? こんな時計、誰も買ってくれないよ」などといわれた。
だが、それは間違いだった。セッション最初の販売で、パテック フィリップの永久カレンダーが6500スイスフラン(日本円で約77万9000円)で落札という高値を記録したのだ。これを受けたパトリッツィ氏は、2回目の腕時計オークションを開催した。このとき、パテック フィリップのクロノグラフ付きパーペチュアルカレンダーが、1万8000スイスフラン(日本円で約215万9000円)で落札された。ヴィンテージウォッチブームが始まったのである。
パトリッツィ氏は、のちのアンティコルムとなる新会社、ハプスブルグ フェルドマンを通じて、腕時計だけのオークションを開催しはじめた。これにはほかのオークションハウスも飛びつく事態となる。1980年にサザビーズが初めて大規模な腕時計オークションを開催し、翌81年には、クリスティーズが同様のオークションを開催した。80年代初頭の不況により一時期ヴィンテージ市場は減速したが、80年代半ばには再び活気を取り戻している(詳しくは後述)。
ジャン-クロード・ビバー氏
一方、スイスウォッチメーカーの経営者たちのあいだには、クォーツの波に対する対抗勢力も存在した。クォーツ時計の反革命者はジョージ・ダニエルズだけではなかったのだ。またスイス時計業界の重鎮のなかにも、機械式の永続性を同じように信じている人がいた。その最大の信奉者が、ジャン-クロード・ビバー氏とロルフ・W・シュナイダーの2人であった。
1982年、LVMHグループの時計部門を率いるビバー氏(執筆当時)は、当時としてはまさに奇想天外ともいえるアイデアを思いつく。ビバー氏はオメガのクォーツショックへの消極的な対応に不満を抱いていた、“ヤングタークス”と呼ばれる若い経営者たちとともに、オメガを辞めたばかりだった。ビバー氏はオメガに、ブランパンという休眠中の姉妹ブランドがあることを知っていた。1950年代の全盛期、ブランパンはダイバーズウォッチ、“フィフティ ファゾムス”を手がけたとして名をはせていたが、クォーツショックをきっかけに、まだいくつかの機械式ムーブメントを製造しつつもブランドとしてはほぼ姿を見せることはなかった。ビバー氏の頭には、このブランドを買収して高価な機械式時計メーカーとして復活させるという考えがあったのだ。そして彼は、スイスのジュー渓谷にある機械式ムーブメントメーカー、フレデリック・ピゲ S.A.のオーナーであるジャック・ピゲと手を組み、機械式ムーブメントの数々を手に入れた。
ブランパン初となるミニッツリピーター。
1983年1月、彼らはブランパンの名称を、9000ドル(日本円で約213万7000円)相当で購入した。デジタルウォッチの生産量が機械式時計を上回ったころ、ビバー氏は無名のブランドから、まったく新しい機械式時計を市場に送り出したのだ。マーケティングを除けば、すべてが突拍子もない計画に思えた。ビバー氏は、彼の輝かしいキャリアの特徴である、天才的なマーケティングの兆候として、次のふたつの巧妙なことを実行した。そのひとつが、18世紀前半にスイスのジュラ山脈に住んでいた時計職人、ジャン=ジャック・ブランパンという人物が、このブランドの創始者であるということを突き止めたことだ。確かに、ブランパンの宣伝パンフレットにあった創業者の言葉(彼は繰り返すように、“我々は今日、明日の歴史の1ページを書いているのだ”といっていた)は、やや巧妙な印象操作のような気もする。ではなぜ、そんなこじつけをいうのか?
ユリス・ナルダン アストロラビウム ガリレオ・ガリレイは、機械式で複雑、さらに非常に高価という、1980年代の腕時計にありがちな要素をすべて備えていた。
さらに重要なのは、ビバー氏がブランドの本質を表す広告スローガンを考えたことである。“1735年の創業以来、ブランパンにクォーツウォッチは一度も存在したことはないし、これからもないだろう”。このスローガンは十分に真実であったし、事実1969年まで誰もクォーツウォッチを作っていなかったのだ。しかし、そんなことは問題ではない。このスローガンは、ブランパンがジャン=ジャックの時代から、機械式時計を作り続けてきたことを暗に示していたということだ。そして、ブランパンの信条である、“我々はハンドメイドによる機械式時計の美しさ、伝統、そして価値を信じている”ということを、大胆に表現したのだ。すべて機械でつくられた、ありふれたクォーツウォッチが欲しい人はどうぞスルーして、だが、伝統的な職人技を重視するならば、ブランパンを手に入れるべきだと。ビバー氏の堂々ともいえる、1983年のアンチクォーツキャンペーンの展開は驚くべきものだったが、無事に成功を収める。ブランパンの売上が顕著に伸びたのだ。ビバー氏のプロフェッショナルな機械式マーケティングは、次に来る10年間の機械式時計の波を作り出す、最初の波紋となった。
ビバー氏とピゲがブランパンを買収した同年、クアラルンプールで時計部品を作っていた、スイス人のロルフ・W・シュナイダーが、同じくクォーツショックの打撃を受けていたユリス・ナルダンを買収した。このとき、正社員1名、パートタイム1名の計2名で運営を続けていたという。クォーツウォッチはすでに、会社や業界にダメージを与えていたにもかかわらず、シュナイダーは今後も機械式だけを作り続けたいと考えていた。彼はひそかに、ゆるぎない救出計画を練っていた。それは、時刻のほかに、日食と月食の時間、真太陽時、星座、月と星の位置など、難解なデータが得られる機械式時計の製造である。そしてシュナイダーが雇った若い時計職人、ルートヴィヒ ・ エクスリン(Ludwig Oechslin)氏がつくったユリス・ナルダン アストロラビウム ガリレオ・ガリレイは、機械の魔術のような驚くべき出来栄えだった。しかしさらにすごいのは、これがデビューした1985年に、シュナイダーはこの時計を80本、3万7500スイスフラン(日本円で約364万7000円)という価格で販売したことである。
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機械式時計の確立
ヘンリー・グレイブスJr. スーパーコンプリケーションに触発され、パテック フィリップは極めて複雑な時計の開発を推し進める。
機械式時計の復活には、新しい機械式時計の起業家が不可欠であった。しかしジュネーブのパテック フィリップやロレックスを中心とする機械式時計の老舗メーカーに比べれば、新興勢力は大変小さい存在である。ほかのメーカーがクォーツウォッチへの転換に躍起になるなか、彼らが持つ機械式時計を支え続けることが、機械式時計が生き残るためには必要不可欠だったのだ。
フィリップ・スターン
1979年、パテック フィリップの社長であるフィリップ・スターン氏は、1989年に迎える創業150周年に向けた企画会議にて、重大な判断を下す。それはETA社が1.95mmのクォーツウォッチ、デリリウムを発表し、スイスがクォーツ技術で日本に対抗できると示したこの年に、スターン氏はパテック フィリップの150周年記念モデルを機械式時計にすると決断したのだ。スターン氏は、1932年に発表した、24もの機能を搭載し、世界で最も複雑な時計の称号を手にしたパテック フィリップ グレーブスよりも、さらに最も複雑で、特別な機械式時計を作ることをチームに求めた。そして彼のテクニカルチームは、1980年にこのプロジェクトに着手した。
向かいのロレックスでは、社長のアンドレ・ハイニガーも機械式に賛成し、クォーツに反対していた。「アンドレ・ハイニガーには、まさに先見の明があった。彼の見解は、非常に高価なクォーツウォッチはすぐに陳腐化してしまうというものだった」と、スイス人作家のルシアン・トゥルーブは著書『Electrifying the Wristwatch(Schiffer Publishing, 2013)』のなかで書いている。「これはトランジスタラジオ、テレビ、卓上計算機などですでに起こっていたことだ」とトゥルーブ氏は続けている。「最高品質の機械式ムーブメントは、部品の製造や組み立てに多くの優秀な労働力を必要とするため、常に高価で、高級品であることに変わりはない。クォーツウォッチと違い、機械式時計はおおよその時間しかわからないということは、文字盤に“Superlative Chronometer, Officially Certified(COSC認定)”と書いておけば、簡単に隠すことができる…。富裕層は時刻がわかるための道具が欲しいのではなく、手首に飾れる、美しくて高級感のあるオブジェを望んでいるのだ」
その結果、1970年代にハイニガー自身が認可した、長年にわたるクォーツ技術の研究にもかかわらず、機械式時計という業界でロレックスは王者に君臨し続けたのである。ロレックスはクォーツウォッチをつくっていた。しかし、その数は多くない。アンドレの息子であり、後継社長のパトリック・ハイニガーは、1994年の私のインタビューに対し、この額を「取るに足らない」と答えている。
機械式計時が脅かされていたこの時代、ロレックスのようなブランドでさえクォーツウォッチを製造していた。
スイスの時計産業のもう一方の端、ドイツとの国境に近いシャフハウゼンにある、IWCのCEO、ギュンター・ブリュームラインも機械式にこだわっていたうちのひとりだった。ブリュームラインは1982年に、同社のチーフとして着任している。彼はまず最初に、同社トップの時計職人であるクルト・クラウス氏に、彼が取り組んでいるプロジェクトにちょっとした変更を加えてはどうかと提案した。クラウス氏は永久カレンダーが好きだった。
クォーツショックが訪れたとき、1996年に彼は「週に4日しか仕事がなかった」と語っている。「5日目には、アイデアやデザインを練るのに没頭していました」。特に永久カレンダーのところだったという。ブリュームラインが入社した当時、彼は自動巻きムーブメントを搭載した、永久カレンダー腕時計の開発に取り組んでいた。それをブリュームラインに披露したところ、新しいボスは圧倒された。何に感心したかというと、永久カレンダーを搭載した自動巻きクロノグラフムーブメントだろう、とブリュームラインは話した。当時、これまで誰も永久カレンダー搭載の自動巻きクロノグラフ腕時計をつくっていなかったことを考えると、クラウス氏は反論できなかった。彼は一度挫けるも、再び図面を引き直した。そして彼は2年間、図面やカレンダーの計算をしながら、この時計の試作に取り組んだ。