1930年代後半における時計販売店での購入体験というものは、現在のそれからさほどかけ離れてはいなかった。世界中の主要なショッピング街にある正規販売店のショーウィンドウの向こうには、ピカピカの時計が整然と並べられていた。もしかしたら、そのブランドの最新モデルのユニークなセールスポイントを強調したキャッチコピーや、目に見える形でのブランディングも多少はあったかもしれない。しかし現代で時計ブランドのマーケティング部門が製品を売るために起用する著名人の傾向には、当時と今とで大きなパラダイムシフトが起きている。今日に私たちが目にするのは(時計ブランドの予算の限りにおいて起用される)、ポップミュージシャン、映画スター、プロスポーツ選手などである。
1938年に作られたこの小売店用の陳列ケースは、史上最大の世界的紛争が勃発するまでの数年間、実際に都市部の大型販売店のショーウィンドウに飾られていたものだ。現在ではかすかに古色を帯びたこのショーケースも、新品当時は顧客の目を引くことを目的とされていた。ある熱心なロンジンのコレクターは、このショーケースに展示されていたであろう“航空”時計のほぼ全モデルの行方を突き止めた。唯一、ストップセコンド フライバック クロノグラフとスプリットセコンド クロノグラフのふたつだけが見つからなかった。これらの時計はどちらも非常に希少価値が高く、入手不可能なモデルとして知られている。しかしなんと、シデログラフやボックスクロノメーターまでもが発見されている。
時計は時折、時代を超えてもそのままの姿で保存されていることがあるが、小売店のディスプレイやマーケティングツールはしばしば時間の経過とともに失われてしまう。時計にはコミュニティのゴシップに基づいた伝承がつきものだが、こうした販促物はときに、その時計の位置づけや使われ方についてより深い洞察を与えてくれることがある。それらは、メーカーからダイレクトに提供される一次情報と言えるものだ。私は幸運にも、このロンジンのコレクターがショーケースを組み立て、空いたスペースのひとつひとつに正しい時計を慎重にはめ込んでいく過程を見る機会に恵まれた。おそらく、約80年ぶりのことだろう。ロンジンの米国代理店であるウィットナーの名前も入っていることから、この展示用ショーケースはもともと北米で使われていたに違いない。私がこの展示ケースに出会ったのは、タイ滞在中のことだった。バンコク在住の著名なロンジンコレクターからおもしろいものがあるので見せてあげると言われたのだが、このタイムカプセルの存在は予想外だった! 30年代後半のアメリカの店先から2000年代半ばのバンコクにどのようにしてやってきたのかはまったくの謎だが、そんなことを考える余裕すら私にはなかった。展示ケースを見る機会を得たこと、そしてもちろん時計も見ることができたこと、さらにその背後にある背景を読み解くことができたことに、ただただ興奮していた。
完全に組み立てられたこのセットからは、時計メーカーが現在とは異なる方法で顧客とのコミュニケーションを図っていた時代を垣間見ることができる。パイロットや探検家が時計ブランド、特にロンジンに支持されていた事実は、当時の人々が航空飛行やパイオニア精神に夢中になっていたことを物語っている。記録を塗り替えたパイロットは、まるでセレブと同じような地位を与えられた……、実際、彼らはこの時代におけるセレブだったのだ。この“オナーロール(Honor Roll)”に名を連ねるパイロットたちは皆、航空業界に多大な影響を与えた人物ばかりである。
エンジニアリング技術の急速な進歩はそのまま飛行機の高性能化を意味し、その技術はパイロットにかつてないほどの精密さを要求した。パイロットの仕事にはロンジンが提供するような高精度を誇るツールが必要だったが、このタイムカプセルのような展示ケースは、ロンジンのビジネスのもう半分の側面である時計のマーケティング方法とそのマーケティング活動によって、当時の社会が名誉や価値があると考えたものについてどのようにアプローチしていたかを明らかにした。今日のロンジンのマーケティング部門は、私たちがデビッド・ベッカム(David Beckham)やジョージ・クルーニー(George Clooney)のようなスタイルを構築するのに役立つ時計を売り込んでいる。しかし30年代のロンジンは、上空1000フィート(約305m)で地平線に向かって飛翔するという離れ業を成し遂げるための腕時計を販売していた。ニュースメディアが数え切れないほどの見出しで航空界の偉業を取り上げていただけでなく、ハリウッドは航空業界というレンズをとおしてアメリカの理想であるヒロイズムと勇気を象徴する映画を量産していた。ハワード・ホークス(Howard Hawk)監督のスリラー映画『暁の偵察(原題:The Dawn Patrol)』や『無限の青空(原題:Ceiling Zero)』は、この概念を象徴している。
そしてロンジンの時計も同様にヒロイックだ。伝説的なロンジンのCal.13ZNは、時計学における真の技術革新の結晶であるウィームスやリンドバーグとともに全面に打ち出されている。ガラス張りのコックピットがなくとも、勇敢なパイロットに適切な地図とコンパスを与えれば、飛行機でA地点からB地点に移動できる。そして、必要な計器はすべてこの展示ケースに収まっている。それ以上でもそれ以下でもない。
ほとんどの人々は、世界が現在感じているよりもはるかに広がりのあるものだと知っていた。最近の格安航空会社は空の旅を大衆化し、世界中のどんな目的地へもUberで空港まで行くだけで行けるようになった。1930年代は西洋近代史における暗黒の時代とされている。世界大恐慌がアメリカ経済を崩壊させ、ヒトラーがヨーロッパで首相から独裁者へと醜くのし上がった時代だからだ。しかしこの10年はまた、私たちが今いる世界に対する理解を深めるために、地球の果てまで旅する人々への憧れによって盛り上がっていた時代の真っただなかでもあった。
深い政治的・社会的対立があったにもかかわらず、1930年代の航空宇宙開発は史上最高水準にあった。1949年にイギリスがデ・ハビランド コメットで世界を ジェット機の時代に導く約10年前となるこの時代は、航空史における黄金時代と見なされている。ピストンを動力源とする旅客機は極東を切り開き、大西洋横飛行に伴う航海時間の短縮を可能にした。ほんの10年前なら、それはオーシャンライナーかヒンデンブルク号のような飛行船でしか実現できなかったことだ。飛行機旅行の普及につながった主要なマイルストーンのほとんどは、何らかの形で、ロンジンの“オナーロール”に記載された名前と関連づけることができる。
この展示ケースは、ロンジンが彼らの任務の遂行に役立つ計器を提供したことを公に認めた飛行家や探検家たちを紹介するものである。プレートに刻まれた名前のなかには、チャールズ・リンドバーグ(Charles Lindbergh)、ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)、アメリア・イアハート(Amelia Earhart)、リチャード・イヴリン・バード(Richard E. Byrd)提督など、パッと目につく名前も含まれている。リンドバーグとロンジンの関係については、ジャック・フォースターが詳しく書いた伝説的な時計が示している。そのほかの名前は、現代の人々にとってはまったく眼中にないものかもしれない。だが、彼らが想像を絶する偉業を成し遂げてきたことは間違いない。ロンジンの“オナーロール”に掲載された名前の一覧を読んでいると、まるで30年代の航空界のスターを集めたハイスクールの年鑑を眺めているような気分になる。